第1日 10月16日(土)
本学会において、「臨床的人間形成論」という主題が問われるのは初めてのことである。教育学研究の最も基礎的部門を担うはずの教育哲学研究において、なぜ「臨床的」人間形成論の構築が問題とされるのか。また「教育」論ではなく、なぜ「人間形成」論なのかという二つの疑問がただちに示されるに違いない。
それでは、なぜ「臨床的」人間形成論なのか。ほぼ1970年代末までの教育哲学において、子どもや青年の発達とその危機に関わる問題が論じられる際には、「理論―実践」問題というフレームの中で問われるのが常であった。そこでは、社会進歩を自明の前提とした包括的な理論が、個別の教育現象を体系的に意味づけ、実践に一定の意義や問題点を指摘するというように、「大きな物語」が先行した実践研究が重ねられてきた。ところが、1980年代以降、「大きな物語」の後ろ盾を次第に喪失してきた学校では、その制度化が深く進行する一方で、子どもや青年が、未来への展望を描けずに、「学ぶこと」、「学校に行くこと」、「大人になること」、「仕事をすること」の意味を喪失するというアンビバレンツな状況が出現してきている。不登校という問題一つをとってみても、「人は、なぜ学ぶのか」、「なぜ生きるのか」という哲学的難問を内に抱え込まざるを得なくなった。ここでは、もはや包括的理論から教育現象を意味づけるだけでなく、制度化された学校や<教師―生徒>関係の言説などが複雑に絡み合って構成される問題状況に深く分け入りながら、子どもが抱え込んだ問題の文脈を解読し、そのもつれを解きほぐしながら、「学ぶこと」、「生きること」の意味を編み直していくという作業が求められる。そこでは、状況を構成する子どもの自己理解の言葉、教師や親の教育言説等が問い直される。教室の言説研究や物語論は、その一つの示唆を与えてくれると考えられる。
また近代の教育学(pedagogy)は、教師の教育的意図に即して子どもや青年の発達を援助するという技術学の理論を構築してきたが、それは、子どもをますます狭い「教育空間」の中に囲い込むというパラドックスを招いたのではないか。現在の子どもや青年は、ヨコに広がる多様な人間関係やタテに繋がる異世代との繋がりを見出せないまま、かろうじてメディア空間の中に居場所を見出しているのではないか。
clinicの語源であるギリシア語のκλινηとは、もともと人がその上に横たわる寝台、ベッドを意味し、そこからベッドで寝たきりの病人や死の床まで洗礼をのばす人を意味するようになったと言う。「臨床」とは、治療を施す、直すという能動的意味よりも、病床で苦しむ他者に寄り添い、苦痛を共有するというパトス(受動)的なニュアンスが濃厚である。身近な教育言説を解読し、問題を裁ち直すことで、子どもや青年の自己形成の苦闘にアプローチできるのではないか。
教育哲学会第47回大会プログラム